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周辺案内


上山城周辺に「黒板塀」が増えてきました
 黒板塀とは、城下町再生志士隊が平成17年から上山の町並みを城下町らしい景観にしようと、ブロック塀に黒い板を貼って板塀化しているものです。
 今年は山城屋(葉山館所有)のブロック塀を2年がかりで板塀化しました。この活動は、14年間で16カ所、307.9mを地道に板塀化し、上山城周辺を巡るコースの要所要所が黒板塀になってきました。足湯や武家屋敷通りもあり、歩いて楽しい街並みになってきています。
 是非お城周辺もゆっくり歩いてみてください。
※城下町再生志士隊とは
武家屋敷通道路改良事業を機に平成17年3月結成。建築士、塗装業、左官業、造園業、旅館業、会社員、観光ボランティアガイドなど多彩なメンバー。既存の塀を整備し風情を良くする活動を手弁当で行っている。

































上山城足湯
足湯は市内全5か所、
共同浴場は5か所あります。
人気の武家屋敷は
上山城から徒歩5分程です。
@水岸山慈眼院観音寺  A籾倉(もみぐら)
観音寺は元観音堂として奈良時代聖武天皇の御代、高僧行基の開創と伝えられています。時を経て天仁二年(1109)に道寂が寺門を開き、本尊の聖観音菩薩は霊験あらたかで、多くの人々の信仰を集め、室町時代には最上三十三観音の第十番札所とされました。  旧上山城内にあった兵糧米の保管庫。現在は個人の別棟として使われています。
 B清光院(せいこういん)  C鶴の休み石
 清光院は、当院に伝わる古文書によれば、文永年間(12641275)に法爾坊という羽黒山修験者(山伏)が湯上山(後の山王山)に定住することによって始まったとされています。江戸時代中期頃、上山領内には約二十の修験院があり、その大部分が羽黒派修験でした。修験院の山伏は修験山伏または法印と呼ばれ、神社祭典、加持祈祷、三山先達などをしていました。清光院は代々の領主の庇護を受け、雨乞・晴天・虫除・五穀豊穣の諸祈祷などを命ぜられ、羽黒山や蔵王山への代参は同院に限られていました。また、羽黒派修験の触頭として地方在住山伏や修験者を統率し、湯殿山参詣の通行手形もここで発行していました。  長禄二年(1458)、旅僧月秀(げっしゅう肥前国杵嶋郡出身)は沼地に脛を浸し、傷を癒して休んでいる鶴を見て、そこに温泉が湧き出ていることを発見しました。後に「鶴の湯」「鶴脛の湯」と称し、ここはその源泉地とされています。
D湯町元山王の大日板碑 E月岡神社
この板碑は、山王山にあり、正中二年(1325)の年号が刻まれています。一説では、発見される以前、付近の橋に使われていましたが、橋の架け替えの時に梵字が刻まれていたことがわかり、現在地に建てられたといわれています。板碑は、江戸時代の文化年間(18041818)頃まで「古碑」「平仏」と呼ばれていました。上山市内においても数多く確認されています。そのほとんどは凝灰岩の自然石をそのまま用い、種子(梵字)、年号、造立趣旨などが刻まれています。造立目的は供養にあり、死者の追福を弔って造立するもの、生前、死後菩提を祈念して営む逆修などがあります。 上山城の旧本丸跡に建てられ、江戸時代中期から幕末まで上山藩を治めた藤井松平家の初代利長と二代信一が祀られています。境内には沢庵禅師の作と伝えられいる庭があります。
F上山城西内堀跡(上山市指定史跡) G上山藩校 明新館(めいしんかん)跡
江戸時代前期の土岐氏時代に上山城下が最も良く整備され、上山城の周りには二重の堀が巡らされていました。しかし、元禄五年(1692)、土岐氏の転封とともに幕府の命令によって上山城は石垣も含めて取り壊されてしまいました。以後、大規模な修復をすることは許されず、明治時代初期には堀の大部分が埋められてしまい、ここが唯一残された堀跡になります。 上山藩では、文化六年(1809)藩主松平信行の時代に、藩の施設を利用して上山藩校「天輔館」が開設されました。ここでは儒学ばかりではなく、武道の鍛錬も行われたようです。天保十一年(1840)、藩主松平信宝は藩校の充実をはかり、学舎をこの地に新築しました。学風は古学より官学の朱子学に、名称も「明新館」と改められました。
H武家屋敷(上山市指定文化財) I栗川稲荷神社
上山城の西側には四軒の武家屋敷が残されており、藩校時代の中級武士のくらしを偲ぶことができます。
※三輪家と旧曽我部家は公開されていますが三輪家は有料となります。
栗川稲荷神社は備中国庭瀬の藩主信通公が城中の守護として祀り、厚く信仰したお社です。元禄十年(1697)信通公は出羽国上山に転封する際に、古くから信仰していた稲荷大神のご神体を携えて下向し上山城内に祀りました。明治維新後は、地元の人が譲り受けて現在地の松山に社殿を移し祀られるようになりました。参道には赤い鳥居や石灯籠が立ち並び、水商売繁盛・金運に霊験があるとして、北海道、関東からも参詣者がみられます。
J春雨庵(はるさめあん)跡(山形県史跡)
寛永六年(1629)八月、京都大徳寺の沢庵禅師は「紫衣事件」で江戸幕府と対立し、訴状執筆の責任を問われ上山に流されてきました。当時の上山藩主土岐頼行は、沢庵和尚に草庵を用意し、手厚く迎え入れました。沢庵はこの庵を「春雨庵」と名づけ、寛永九年(1632)七月に三代将軍家光に赦されるまでの約三年間をこの地で過ごし、禅道や詩歌、水利や築庭など城下町の発展に少なからず影響を与えたといわれています。